ネットを徘徊していて見つけた興味深い文書ですー良かったらよんでみてね




甘えていたり、劣等感が強い人というのは、マスローの言葉を使えば、
欠乏に動機づけられている人なのである。
自分の成長や自己実現に関心がいかない。
そして、そのような人は、たえず自分を賛美してくれるような人を必要とする。
自分が必要とする時、自分をチヤホヤしてくれる人が、
そのような人は必要なのである。
劣等感の強い人は、そのような人がそばにいてくれないと不安になってしまう。

Deficiency-motivated people musut have other people available!
(Abraham H.Maslow "Motivation and personality" Haper & Row,Publishers,Inc.)
これはマスローの文である。
欠乏に動機づけられた人は、誰か自分のそばにいてくれないと不安になるということである。
そうした点で、欠乏に動機づけられた人は、誰が好きであるか分からない。
このような人は、そばにいてくれて自分をチヤホヤしてくれれば誰でもいいのである。
誰でもいいのだが、とにかく誰かが自分のそばで自分を賛美していてほしい。
こんな人のそばに、もう一人劣等感を持った人がいると、その役割を果たすことがある。

なぜそうなるのか。マスローによれば、それらの人の主な欲求はほとんど他人によって
満たされるからである。
ところで、この欠乏に動機づけられた人は、ある人を愛していると錯覚することが多い。
いつもその人がそばにいてくれることが必要だからである。
しかし、それが「その人」でなければならないというのではない。
欠乏に動機づけられた人は、このことに気づかない。
先にも言った通り、条件さえそろえば誰だっていいのである。

困ったことは、もうひとつある。
そばにいる人もまた、自分は愛されていると錯覚する。
もちろん、この人が自己実現しているような人であれば、そのような錯覚をしない。
今、自分を必要としているこの人は、決して自分そのものを必要としているのではなく、
賛美を必要としているにすぎないと気づく。
彼らは、お互いに相手の人柄にひかれているわけではない。
お互いに自分の心の欠乏を満たそうとしているにすぎない。
自分に表面的な威信を与えてくれるなら、誰だっていいのである。

しかし、人間は錯覚によって救われるものではない。
自分が相手を賛美しなくなれば、相手が不機嫌になるということには気づいている。
また心の底では相手を恐れている。相手を賛美しつつも、相手によって脅かされている。
人間が本当に満たされるためには、自分そのものを受け入れてもらう必要がある。

"欠乏の人"と自己実現した人との大きな違い

欠乏に動機づけられた人は、誰かがそばにいてくれないと不安である。
しかし、その人については条件がある。それは人柄についての条件ではない。
その点については、先にも言った通り誰でもいい。
条件とは、自分の神経症的自尊心を傷つけない、自分の神経症的自尊心を満足させる、ということである。

つまり、誰であってもいいのだけれど、その人は決してありのままのその人であっては
ならない、ということである。
自分の感じるように感じてはいけないし、自分の価値観を持ってはいけないのである。
欠乏に動機づけられている人がその人に期待するように感じ、期待するように考え、
期待するようなことを言わなければならない。
そのそばにいる人は、実際のありのままの自分であることは許されていない。
このような条件をみたす限り、誰であってもいいということである。
逆に、このような条件を他人に出さないのが、自己実現的人間なのである。

人は、水が流れると言って、岩が固いと言って、文句を言わない。
このように自然を受け入れるが、同じように他人も受け入れるのが自己実現した人間である、とマスローは言う。
「これが違ったものであればいい」などと言わずに、そのまま受け入れるのが自己実現した人間である、と。

ところが、欠乏に動機づけられている人は、この要求が強い。
そばにいる人は、その要求に自分をあわせる必要がある。
先にも書いた通り、欠乏に動機づけられた人は、満足が主に他人の言動によってもたらされるからである。
彼らの主な欲求は、他人の自分に対する反応によって満たされる。だから、そばにいる人への要求が強くなる。
また逆に、他人の自分に対する反応によってひどく傷つく。
傷つきやすい人というのは、まだ自己実現に関心のない人ということであろう。

親がこのような場合、子供は、自分の言動が他人に大きな影響を持つことを知って、
ありのままの自分の欲求その他を、恐れるようになる。
大人になってからも、自分の言動が他人を傷つけないか、他人の不機嫌を誘わないかと、恐れるようになる。

ところが、自己実現している人にとって、他人の自分に対する反応はそれほど重要ではない。
自分の主な満足は、他人の自分に対する反応によって得られるものではなく、
自分の内的な成長によって得られる。

満足やよい生活は、主としてその人の内面の生活のあり方によって決まってくる。
他人が自分のしたことをほめてくれることより、自分がそれによって成長し、
満足できることのほうが大切である。従って、そのような人は傷つき易くはない。
ところが、欠乏に動機づけられている親に育てられたような人は、
大人になって、自己実現している人に対してまで、自分のありのままの感情が
その人を傷つけるのではないかと恐れる。

他人のお世辞やチヤホヤに動かされない人間を目指せ

今、親子を例にとったが、これは仲間同士についても同じである。
欠乏に動機づけられている人は、友人に対しても、恋人に対しても要求が多い。
そして自己実現している人は自分を偽らない人であるから、このような人のそばにはいない。
すると、自分を偽っても人とともにいたいという欠乏欲求に動かされているような人、
つまり心の底で孤独な人が、そのような人のそばにいることになる。

そして、相手の要求に沿いつつ、自分の孤独感をいやそうとするが、それは無理な話である。
ありのままの自分が許されていないところで、心の交流など生まれるはずがない。
欠乏欲求に動かされているだけの人が、「私はプライドが高いのよ」などということを本気で言う。
傷つき易いことを「プライドが高い」という言い方をすることがよくある。
さらに、そばにいる人が、そのことを尊敬したりする。

甘えている人、欠乏動機に動かされている人は、
いつも誰かがそばでチヤホヤしていてくれないと不安で、すぐに他人の言動に傷つく。
それは決して「プライドが高い」のでもなんでもない。
また、「気持ちを大切」にしているのでもなんでもない。
大人になって幼児と同じように甘えている欲求不満の人間というだけの話である。

自己実現している人にとっては、そのように他人がいつもそばでお世辞を言ったりすることで、
自分の生活は妨げられていると感じるものである。
この大きな違いに注目することが、人間関係において大切である。


転載です
http://www.accessup.org/pj/grozy/20091125.html